ストリート日本画の考察

untitled (“Mt. Fuji” and flames in homage to Hayami Gyoshū)

こちらでは、「ストリート日本画」セクションに出品されている一部の作品について、彼の親しい友人でありドキュメンタリー制作者でもあったリンダ・ハッテンドーフとマサ・ヨシカワ、ならびに本展担当キュレーターの金子牧が共同で執筆した解説文をお読みいただけます。これらは展覧会図録より転載したもので、図録にはミリキタニの作品に関するさらに多くのエッセイや論考が収められています。

Black-and-white drawing of an insect flying toward flame-like swirls surrounded by leaves in front of a snow-capped mountain

Jimmy Tsutomu Mirikitani, untitled (“Mt. Fuji” and flames in homage to Hayami Gyoshū), after 2001, Museum purchase: R. Charles and Mary Margaret Clevenger Art Acquisition Fund, 2020.0221

untitled (“Mt. Fuji” and flames in homage to Hayami Gyoshū)

ハッテンドーフ

シンプルなBIC社製のボールペンで描かれたこのドローイングは、ジミーが速水御舟へのオマージュとして描いた作品です。秀でた才能と革新的な作風、そして若くして亡くなったことなど、ジミーは御舟についてよく語っていました。調べてみると、御舟は1935年に四十歳の若さで亡くなっています。これは日本に住んでいたジミーが十五歳で、川合玉堂や木村武山といった師のもとで絵を学んでいた時期にあたります。

御舟の代表作として最も知られているのが、ジミーが「ダンシング・ファイヤー」と呼んでいた作品です。《炎舞》のテーマをジミーなりに解釈したこの作品は、炎が生命を宿したかのようにうねり、富士山よりも高く舞い上がっています。ひらひらと飛ぶ蛾は、美しくも危うい火の渦へと吸い込まれていくように見えます。炎、そして炎に呑み込まれるもののイメージは、原爆や9/11同時多発テロ事件などを主題にしたジミーの作品に繰り返し登場するモチーフです。ここでは悲劇性よりも美しさが前面に出ていますが、炎が回転して円を描く様相は、ジミー自身の深いトラウマを描いた切実な作品群と呼応しています。

ヨシカワ

ジミーはこの作品を、御舟へのオマージュとして、あるいは彼の《炎舞》に着想を得て描きました。《炎舞》の「正式」な英訳は Dancing in the Flames(ダンシング・イン・ザ・フレイムズ) ですが、ジミーは、より直訳に近い「ダンシング・ファイヤー」という名前で呼んでいました。御舟の《炎舞》では、蛾が炎の周囲を飛び交い、舞っているのに対し、興味深いことにジミーの「ダンシング・ファイヤー」では、炎そのものが踊っているように見えます。この独特な炎の表現は、原爆ドームやワールドトレードセンターを描いた作品にも見られます。ジミーはかつて、「人の作品をコピーすることはない。自分の考えで描くんだ」と言っていました。ただ、他の作品から「インスピレーション」を受けることはあったわけです。

富士山は、日本で最も高い山であるだけでなく、美しい姿と印象的な円錐形をもつ聖なる山として信仰の対象でもあり、日本を象徴する存在です。また、形が似ていることや宗教上・信仰上の理由から、各地の山を「富士」と呼んできた長い歴史があります。こうした山々は「郷土富士」と呼ばれ、その数は数百にのぼり、日本国外にも十数例あります。たとえば、日系アメリカ人が「タコマ富士」と呼ぶワシントン州のレーニア山があります。トゥーリーレイク強制収容所からさほど遠くない場所にあるシャスタ山も、富士山の面影がある姿をしています。

そう考えると、この作品の背景に描かれた山は、間違いなく富士山なのですが、ジミーが描こうとしたのは本当の富士山だったのか、それとも別の「富士」だったのでしょうか。以前、「もし本物の富士山なら、周囲に何も描かれていないはずだ」と指摘した人がいたので、それを聞いてどうなんだろうと思っていました。ジミーもそのことは分かっていたはずです。でも彼にとってはそんなことは重要ではなかったのでしょう。これは、ジミーの富士山なのですから。

キュレーターによるコメント

本作は、ミリキタニが好んだ画材であるボールペンで描かれた、日本画の伝統を踏まえつつ新たに展開した作品です。モノクロームの風景は一見、東アジアの水墨画を想起させますが、本作は日本画家、速水御舟(1894–1935)に捧げられたもので、御舟の代表作《炎舞》(1925年、山種美術館蔵)を大胆に再解釈しています。ミリキタニ自身による銘文には、「行年四十五才で世を去る 早見(ママ)御舟先生を偲びて作る」と記されています。 

《炎舞》は、日本絵画と西洋美術の表現を融合させる御舟の探究の到達点として、高く評価されてきた作品です。御舟が描いた様式化された炎は、不動明王の仏教図像に由来しつつ、炎そのものを主題として前景化する大胆な構成をとっています。一方で、炎の周囲を飛び交う蛾は、写生に基づいて丹念に描写されており、御舟が追求した写実性と科学的正確さを示しています。 

ハッテンドーフが指摘するように、ミリキタニが御舟に惹かれた理由は一つではありません。悲劇的な天才としての評価、特異な炎の表現、そして日本美術院との関わりなど、複数の要因が考えられます。日本美術院は、ミリキタニがしばしば自らの芸術的系譜の一部として言及していた団体でもあります(カタログ所収の村井則子論文を参照)。さらに、両者がともに、異文化の芸術の要素を日本画に取り込み、境界を越えて表現の橋渡しを試みた点において、ミリキタニは御舟により深い共感を抱いていた可能性もあります。 

こうしたミリキタニの日本画へのこだわりは、御舟へのオマージュに限られるものではありません。1990年代以降のミリキタニの作品のほぼすべてには、自身と日本画の巨匠たちとの関りを示す銘文が添えられています。本作でも、御舟への献辞の隣に、次のような書き込みが見られます。 

「日本画一位画家 
川合玉堂 山水 
木村武山 佛画 師事十二年東京」 

川合玉堂(1873–1957)と木村武山(1876–1942)は、ともに東京を拠点に活躍した日本画家です。とりわけ木村武山は、日本美術院の創設メンバーの一人でもありました。これらの銘文と、手描きの落款は、ミリキタニの作品に繰り返し現れ、日本画とその担い手たちとの深い結びつきを明確に示しています。